中上健次 『地の果て 至上の時』

4.5
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本作は、『岬』、『枯木灘』の続編に当たる、中上健次の長編小説である。
(是非両作を読まれたあとに読むことをお勧めする。)

本作に対する評価は賛否あるのだが、私の感想としては、絶賛である。

ただ、何がどう絶賛なのか、表現するのが非常に難しい。
なので今日は、思いつくままに、自分の感性に正直に感想を書いてみたい。
(それ故独りよがりなものとなることをご了承願いたい。)

本作の特徴を一言で表すならば、「圧力のある作品」とでもなろうか。

舞台は南紀。
海と山が極端に隣接した、独特の地形を持つ土地。
その中に「路地跡」という、物語の中心地を持つ。
この「路地跡」を重心とし、あらゆる空間が凝縮されるような世界観が描き出されている。

これまで離れていた実父浜村龍造と主人公秋幸が急速に接近する。
血縁を軸に、時間というものが凝縮される。

さらに、浜村龍造と秋幸とのやり取りをメインプロットとしつつ、路地跡(はっきり言うことは控えるが、明らかに「被○○○落」である)を巡る物語や土着信仰のような怪事件など、さまざまなサブプロットを持ち、それらが多層的に且つあたかも縺れ絡まった糸くずが解きほぐせないまでに絡み合うかのように、観念的にも非常に圧迫される。

上記のような事情により、読者はあたかも万力で上下左右から締め付けられるような感覚に襲われるのだ。

最終的には、その万力自身も自らが作り出す圧力に耐えられず、万力ともども物語が崩壊する。
後に残るのは、敢えて言えば「虚無」であろか。

これほどの作品にはめったにお目に書かれない。
始終読者を圧迫し、解放後には虚無感を齎すのだ。

やや四方山話になるが、舞台となる南紀は私にとって忘れられない地域である。
私の父は和歌山県新宮市出身。
奇しくも本作の著者中上と同郷ということになる。
しかも、同じ昭和20年生まれというから驚きである。
(早生まれの父は戦中生まれ、中上は戦後生まれという隔たりはあるが。)
(因みに父は中上のことを知らないとのことである。)

私が高校1年生の時に祖母亡くなるまで、毎年のように夏に訪れていたのだが、本当に不思議な土地である。
あれほど海と山が接近し、数十メートル移動するだけで景色が一変する世界も珍しいだろう。
行く時は車がほとんどであった。
和歌山市、白浜などを経る湾岸沿いに向かったこともある。
奈良県の吉野を越え、大台ケ原を越え、三重県熊野市に出てから新宮へ入る山越えルートで向かったこともある。

本作で描かれる世界は、私が確実に持つ心象風景と非常にマッチするのだ。

また、その人間模様や暮らしぶりも親近感を覚える。
父についての話となるが、父は作品のように異父兄弟を持つ。
10歳の時に父(私の祖父)を亡くし、非常に苦労して育ってきた。
この物語に登場するような「路地」については、明確に「あの一画のことやろうなぁ」と記憶に残っているそうだが、当時は「路地」だろうとそうでなかろうと、実質において何の差もない生活だったそうだ。
現代でも非常にセンシティブな問題であるためここまでとしたいが、私はこの作品を読んで父を思い出さずにはいられなかった。

今度こそ全然関係ない四方山話であるが、私は上記で仕方なく「虚無」という言葉を使った。
他に適当な言葉が見つからなかったからである。
しかし、私は実は「虚無」という言葉が嫌いである。
「虚」と「無」は、数学的にも、存在論的にも全く別物である。
全然異なる概念を組み合わせた言葉が正しい表現だとはとても思えないのである。
何故こんな不適切な言葉が存在するのだろうか。
「虚無」の系譜を調べてみねばならない。今の私には少々手に余る難題であるが・・。

以上、ほとんど自己満足的な感想となってしまった。
うまく皆様と共有できるような感想が書けず、誠に申し訳ない。

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