ウィリアム・E・コノリー 『アイデンティティ\差異 -他者性の政治-』

4.0
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本著は、私にとって非常に難解であった記憶が残る著作である。
ここまでの読解困難さは、カント『純粋理性批判』や柄谷行人『トランスクリティーク -カントとマルクス-』に匹敵するものであった。

本著については、正直論旨に沿った書評めいた記事を書く自信がない。
なので今回は、本著を読んだことを契機として考えた、私のアイデンティティ観のようなものを綴るということでご了承いただきたい。

但し、本著における「政治」という言葉については少々注意が必要なので、初めに補足を。

■本著における「政治」の意味について
通常の日本語において「政治」という言葉が持つ一般的な意味(所謂「まつりごと」)で本著を読むと、はっきりいってどこが政治の話なのかわからなくなるであろう。
政治哲学においては、「政治」という言葉は非常に特殊な意味を持つ。
これを説明するのは私の手に余るものなのであるが、敢えて間違いを恐れずに書いてみると(それ故、ご指導ご鞭撻大歓迎です!)、

・弁証論的な論争空間
・価値体系間の闘争のアリーナ

とでもなろうか。

政治哲学においては、「政治空間」とは絶対の価値を持たない価値体系どうしの争いの「場」なのである。

さて、それでは以下本題。

■「アイデンティティ」について

「アイデンティティ」は西洋的な概念であるが、人間にとって不可欠のファクターであると言える。
人間は誰しも、自分が自分であることを確信したいと欲求する生き物である。

■「アイデンティティ」のパラドクス

コノリーが本著で指摘するように、「アイデンティティという概念は、「他者」、「差異」という概念との関係において逆説的な側面を持つ。

即ち、一方ではアイデンティティ(自身の独自性)は「他者」との相対において認識されるものである。その意味において、「アイデンティティ」は「差異」に依存した相対的なものであると言うことができる。「他者」、「差異」を必要としない「アイデンティティ」など定義不可能なのである。

しかし他方では、そうして認識された「アイデンティティ」を人は堅持しようと欲求する。必然的ではないかもしれないが、この「アイデンティティ」への固執は容易に「他者」、「差異」への攻撃性を伴うものに遷移し得るのである。

つまり、「アイデンティティ」は、「他者」、「差異」との関係において「依存」と「排斥」という両面性を有するのである。

■「アイデンティティ」の暴力性とそれへの応答

「アイデンティティ」が個人の枠を超え殊に集団のそれとして働くとき、「アイデンティティ」はヘゲモニーを獲得し、上記のような暴力性はより顕著になる傾向がある。

この暴力性の解体や緩和を目指した思想には様々なものがある。

■「アイデンティティ」という概念をそもそも否定的に捉え、消滅させるべきという主張
気持はわからないでもないが、前述のごとく「アイデンティティ」は人間にとって不可欠のファクターである。よってこうした考え方には現実味がないと私は思っている。

■「アイデンティティ」の脱政治化を目指す主張
「アイデンティティ」の重要性は認めつつも、その闘争を避けようとする考えから、各々の「アイデンティティ」の持つ「政治性」(前述の意味での。即ち論争性)を低下ないし中性化しようという立場。「アイデンティティ」の統合化を目指そうとする立場もここに含まれるかもしれない。
しかし、「政治」が価値に関わるものである以上、それは「アイデンティティ」同様人間にとって不可欠のファクターであり、価値は人により千差万別である。よってこの立場も私には非現実的と思えてならない。「アイデンティティ」と「政治性(論争性)」は切っても切り離せない関係にあるのである。

■「アイデンティティ」の持つ暴力性を緩和するような枠組み(「政治空間」)を模索する主張
上記2つが「アイデンティティ」そのものの性質を巡る施策の模索であったのに対し、この立場は、「アイデンティティ」が本来的に持つ暴力性など負の側面についてはディオニュソス的に肯定しつつ、それが機能する場としての「政治空間」を整備することを目指す立場。私の読解に誤りがなければ、コノリーはこの立場に立つ。
私も基本的にはこの立場に賛成である。
問題は、どのような「政治空間」を目指すべきかであり、そのためにどのようなアプローチが採用されるべきか、という点になるだろう。

■アゴーンのデモクラシー(Agonistic Democracy)

コノリーは「アイデンティティ」を巡る問題に対して、「アゴーンの政治(Agonistic Democracy)」という概念を提示する。

コノリーによると、

アゴーンのデモクラシーは、生にとってアイデンティティが不可欠であることは認めるが、アイデンティティの教条主義化は押し止める。そして、人間の生が変幻自在なまでに多様であることへの配慮を、アイデンティティ\差異の闘争と相互依存の中に織り込ませるものである。

と述べられている。
これが「アイデンティティ」そのものの脱力化、または脱構築を目指すものでないことは少なくとも明らかである。
問題は自ずと、「アゴーンの政治は如何にして可能か」という点に収斂される。
「相互依存への配慮」、即ち他者の尊重。
これは非常に理想主義的であるし、そもそも理念であり施策ではない。
しかし、政治思想というものは少なからず理想主義的なものとなることは避けがたいであろうし、またそうでなければ哲学する意味もないだろう。

では施策についてはどうか。
この点を読み解くのが今回最も難しかった点なのであるが、コノリーはどうやら、

①「アイデンティティ」の系譜学的な分析とニーチェ的な「距離のパトス」により、自己の「アイデンティティ」を相対化する思考を鍛錬すること
②「アイデンティティ」を至上価値とせず、より高次の価値を共有化していくこと

という2点を掲げているように思われた。
①の解説は非常に難解であったが、②については我が意を得たり!という感じであった。

「より高次の価値」、それは「生」である。「生命そのもの」、または「生きることそのもの」といっても構わない。

※ただ、ここでは「人間の」生というように限定的なものとさせていただくことをご了承いただきたい。動植物を含めた生全般の話をここに含めるには、私はあまりに力不足である。

コノリーは言う。

アイデンティティは、生にとって不可欠の次元である。にもかかわらず、アイデンティティは、生の逞しさや多種多様性を決して汲み尽くしえないのである。

生の賛美、生の尊厳を基底とすること。これが「アイデンティティ」の暴力性を緩和するカギになる。

ここにはあまりに論理の飛躍があること。
これは所詮信条の吐露でしかないこと。
理想主義的でむずがゆく甘ったるいこと。

私はこれら全てを受け入れる。認知・認容する。
それでも生をより高次の価値として賛美することの大切さを、高々と宣言したいと思うのである。

■主権論について

コノリーのデモクラシー論はラディカルである。
さまざまな危機がグローバル化している現代において、国家と枠組みはもはや古いと彼は断言する。非領土的なデモクラシーが求められる時代だというのである。

こうした言説は、直ちに「主権のグローバル的な統一化」を連想させるだろう。
「アイデンティティ」の問題においては「差異」との関係にこれほどまでにこだわるコノリーが、「主権論」においては「他者性」との関係という問題を看過するのかと一瞬疑いたくなる記述である。何故なら、「他者」、「外部」があってこその「主権」なのだから。

しかしコノリーは、この非現実性を十分に認識している。
彼の問題提起は、「グローバルな課題に領土的なデモクラシーという非効率な枠組みで対応しようという非現実性と、非領土的なデモクラシーという非現実性の、どちらかしかないなら、どちらを選択することが望ましいだろうか」という点にある。

これはなかなか面白い。
アポリアに挑戦する、哲学するものの意志を感じた。

■最後に

めっちゃ疲れた読書でした。

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