書評:山城むつみ『ドストエフスキー』

5.0
7. 文芸評論
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「ラズノグラーシエ」という概念で読み解く山城むつみのドストエフスキー論

山城むつみ『ドストエフスキー』は、読んだ当時の5年間で最高の読書であった。

著者は、ドストエフスキー文学の本質を「ラズノグラーシエ」という概念で特徴付ける。

ドストエフスキー作品の地下室的人物達は、他者に対し一見闇雲に不同意を突き付けるように振る舞っている。

しかし彼らは実は他者の言葉に強く引かれており、同意したい欲求を持っていると著者は捉える。にも関わらず同意できない時、その微小なズレには激しい斥力が発生し、強烈な異和が生じるのだと言う。それは単なる不同意が生み出す反撥とは似て非なるもので、遥かに強力な不協和・憤激を呼び起こすとのこと。

著者はそのような異和を、不同意から生じる反撥と区別し「ラズノグラーシエ」と呼び、それが伴う強い斥力こそがドストエフスキーの世界の主な動力になっていると主張する。

■『カラマーゾフの兄弟』において

典型は『カラマーゾフの兄弟』におけるアリョーシャとイワンの会話だ。

物語の終盤、イワンはアリョーシャから「殺したのはあなたじゃない」と正面から突き付けられる。しかし正にそう考えたいイワンにとって、そのことが「他者から突き付けられた」ことでイワンは同意できないのだという。ここにこの対話が孕む問題が浮かび上がってくることになる。

著者はこの異和を比喩で例えている。録音された自分の声を聞く時の、自分の声とは認め難いあの違和感のようであると。即ち、他者によって自身の本心を表出されるという点に、同意への乗り越えがたい壁が現れると言うのだ。

■『罪と罰』において

ラスコーリニコフは高利貸しの老婆と善良なリザヴェータを殺害します。しかし小林秀雄も指摘するように、ラスコーリニコフがリザヴェータを思い出すことは実はただの1度しかありません。それはソーニャへの罪の告白の際です。

『ドストエフスキー人物辞典』の中村健之介も指摘していますが、ソーニャにはリザヴェータが重なる。リザヴェータがソーニャの目を介しラスコーリニコフを見てくる、更にはそのリザヴェータの目を介してラスコーリニコフは自分を見るのだと言う。

この構造により、ラスコーリニコフは他者による自身の本心の表出に対し覚える強烈な斥力を生じてしまう。

■『悪霊』において

スタヴローギンによるマトリョーシャへの犯行の際、彼「を」見ていたものは何か。

ここへきて、他者の目というものの本質が垣間見えてきます。

ドストエフスキーは「斜めに差し込む光と赤い蜘蛛」と表現しました。異論を恐れずに言うならば、ドストエフスキーにとっての究極の他者とはキリストであり、「ラズノグラーシエ」は究極においては何とキリストに対して生じてしまうのだ。

キリストに対し全面的に同意したいができない。これがドストエフスキーが作品群で提示した問題の通底だと言う。

そして『カラマーゾフの兄弟』に戻れば、イワンの前に現れた悪魔は「自分は本当は善良だ」と言います。善良だが、否、善良であるが故にあらゆる悪事に身を染めてしまうのだと。

「ラズノグラーシエ」における異和は、その斥力によって振り幅が極大化してしまう。

キリストへの同意の不可能性。

その際の強大な斥力による振り幅極大の悪への反転。

ドストエフスキーの描いた悲劇性の本質はここにあると、著者は主張する。

■『白痴』において

この作品では、最終場面において不死・復活の問題がクローズアップされる。

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亀山郁夫氏も主張しているが、ドストエフスキーは理念としてではなく現実の問題としての不死・復活を信じようとした。

ナスターシャ・フィリポヴナの遺体の前のムイシュキンとロゴージン。

彼らが聞いた「足音」とは何か。

彼らが味わった「臭い」とは何か。

ここにナスターシャ・フィリポヴナの「復活」というテーマが隠されてると。

余談だが、マルセル・プルーストはその著作『失われた時を求めて』の中で、主人公にドストエフスキーを批評させ、女性の表情に表れるアンビバレントな魅力について語っていた。これが最高の形で現れた女性がナスターシャ・フィリポヴナだと言えるのではないだろうか。彼女は結局、同意の重みに耐えきれず、破滅してしまうからだ。

キリストへの同意が究極においてできない。そこから生じる強力な斥力による悪への反転。ドストエフスキーが投げかけたこの根源的な問題意識に対し、読者は目を背けることができないのではないだろうか。

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