書評:マルセル・プルースト『失われた時を求めて』

4.5
3. 海外文学
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文字通り「自分自身」の内なる宇宙を旅する体験となる、プルースト文学の耽読

マルセル・プルースト『失われた時を求めて』長編で難解、読みづらいことこの上なく、名実ともに世界文学の中でもラスボス感の漂う作品と言っていいだろう。

この作品は私の読書人生においても長らく鬼門であった。20代の最終盤に一大決心をし読み進めた。半年間、ほぼ全ての土日を費やし、その間あらゆる煩悩を断って、(途中、ガキ使DVD『山崎VSモリマン 炎のファイナルリベンジマッチ』を見ることで一瞬だけ煩悩を解き放ったりしながら)、ノリと勢いで乗り切った思い出が懐かしい。

さて、その内容について。

この作品は、主人公「私」が、家族、恋愛、友情、社交界、同性愛・ユダヤ人を取り巻く社会、闘病などを、自身および特有の観察眼による他の登場人物を通じた複層的な人生体験を経て、遂に文学の意義を見出し、自身の人生体験を深く掘り下げる文学作品を残すことを決意するに至る、というドラマである。

主人公「私」がその後手がけることになるであろう文学作品が、正にこの『失われた時を求めて』そのもののようになるであろうことが容易に予想されるため、本作は、ストーリーや時間観念が円環的と評されることもある。

しかしながら、本作が人生体験を掘り下げることをその手法とするが故に、本作における最も大きなテーマは「記憶」を巡る考察にある、と思われる。

殊に本作では、「理知」によって意識することが可能であるような謂わば「意志的記憶」よりも、体験そのものが深く心中に根ざしているような謂わば「無意志的記憶」がより重視されていることが伺える。

「記憶」の奥底に感じられる過去と現在をつなぐ感覚を掘り下げて文章化し、時間の連続の結果としての現在を照射しつつ、同時に結果である現在の地点から過去を照射するという、謂わば時間交錯的に「記憶」を巡るという手法により、「記憶」の超時間性を炙り出していく。そしてそれを小説という形式で表現する。こうしたことか全編を通じて描かれたテーマなのではないかと思われる。

更に重要なのは、「記憶」を「想像」と「忘却」の狭間に位置付けている点だろう。これにより、「記憶」が事象の単なる対称物ではなく、極めて主観的な精神作用であることを丁寧に描くことが可能になっていたように感じる。

ところで、本作の細部は非常に難解だ。

プルースト特有の文学的教養、芸術観、自然観に基づく描写は、さながら度数の合わない眼鏡をずっと着させられて事物を見続けることを強いられるかのような読書体験となる。目が痛い、しまいには頭がガンガンする、という道中になるかもしれない。

本作が多くの読者を拒絶してしまう理由も1つはここにあるのではないかと思われる。

しかし、プルーストは作中でも言っている。

「読書は、半分は自分自身を読む行為である」と。

プルーストの緻密な文学表現を読み解くために苦闘する時、読者は作中体験を通じながらいつの間にか自分自身を再認識しているかのような読書体験を味わうことができるのだ。その点も本作の魅力となっており、これほどまで読者に内省を迫る作品はないだろうとも思われた。

『失われた時を求めて』を読む旅は、文字通り「私自身の旅」となった・・・。そんな読後感を抱かれてくれた作品である。

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